多様性を認めることが、文章表現を制約しているような気がする。これまで気にもかけず使用してきた性別による役割に関する表現も、「下手なことは言えない」と思ってしまい、表現を避けるようになった。「タブーが増えた」と感じる。先日、友人と会話していて、「その発言、ジェンダーの観点からどうなの?」と突っ込まれることがあった。
幼い頃、江戸川乱歩の小説や、手塚治虫の漫画を開くと、”本作品中には、今日の人権擁護の観点から不適切に思われる表現があるが原文通りにしています~”といった旨の断り書きがあった。当時の私は、こういった「不適切な表現」と呼ばれた部分に魅力を感じていた。現代の文章も、数年後には、このような「おことわり」なしには発刊できないものがどんどん出てくるのではないか。昨今の過激とも思えるようなジェンダー論調を鑑みると、もはや発刊自体できなくなるものが出てくるかもしれない。でも、やっぱり、「見るな」と言われると見たくなるように、「書くな」と言われると書きたくなるもの。そして、ちょっと踏み込んだ内容になると、「面白い」と感じる。だけど、やっぱり、吊し上げて叩かれるのが怖くて、一歩が出ない。
これが現代流の言論統制のトリックだろうか。
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